「well-being」でうまく生きる人になる ~人生100年時代に合わせて「健康の再定義」をしよう!

#健康 #老後 #人生100年 #ライフスタイル #今できること #インタビュー

儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)が健康長寿の心得を著した『養生訓』を出版して300年余り。人生100年時代に突入した私たちは、当時の人びと同様、あるいはそれ以上に、健康であることに関心を寄せるようになっています。

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他方、当時の平均的な寿命とも言われる50歳程度から2倍ほどの寿命を得ることになった私たちだからこそ、当時とは異なり、「長い人生の中で、介護や福祉のお世話になる機会があること」を受け止める必要もあるはずです。

そう考えた時、そもそもの「健康の定義」、つまり「いつまでも元気で活動的なひとだけが“健康”なひとなのか?」ということを問い直してみることも必要ではないでしょうか?

そこで、「最終的には医学が入り込む余地が無いほどに健康を実感できるよう支援することで、究極の予防医学を実践しよう」と、取り組みを続けている、在宅医療NexWel恵那地域笑顔共創クリニック院長で全日本患者安全組織文化学習支援財団代表理事の松本尚浩医師に、この時代にふさわしい健康の定義とセルフケア(養生)をする意義についてお話しを聞きました。

いま考えている“健康”の定義は時代遅れかもしれない

――誰のお世話にもならず、生き生きと活動していられること――。私たちは、これを「“健康”な状態」と考え、それが幸せなことだと考えています。そうあるよう願い、努力しているひとも多いものです。しかし、ことに人生100年時代には、本人がどれだけ努力をしても病気やケガが原因で、いわゆる「“健康”ではない」状態になることは避けきれないかもしれません。では、そうした状態は本当に「“健康”ではない。だから幸せではない」と言い切れるのでしょうか?

医療や健康の考え方を高齢社会という文脈と掛け合わせて新しく考えてみるために、いま考えられている「“健康”な状態」がどのように生まれたのかまずみてみましょう。

私は、ターニングポイントとなるのは、産業革命のころだと考えています。産業革命以前は村々のコミュニティに根付き、農業や畜産業などで生計を立てていたひとたちが、工場がある都市周辺に住み始めることになりましたね。ここで、“健康”の概念が大きく変化したと考えます。

たとえば、これまでは畑に出て農作業をしていたひとがいたとしましょう。そのひとは、体が動く限り自分ができる農作業をして一生を過ごしたかもしれませんし、それができなくなっても、種を植える時期や天候を読む知恵を授けたりすることで人生の最期まで働くことができただろうと想像できます。

ですが、工場で働くことになると様子は一変します。当時の工場での労働はまだまだ機械化が進んでいないので体力勝負な現場であったと伝わっています。そうなると、「工場で働けるだけの体力があれば、資本家にとっては労働力としての価値がある存在」という価値観が生じ始めます。しかし逆に考えると、工場で働く体力がなくなるタイミングで生産能力を失った存在としてリタイアせざるを得なくなるわけです。

リタイアした瞬間、工場を中心に存在した社会との結びつきがなくなってしまうわけですが、それは、現代の会社と会社員の関係性とも通じるところがあります。リタイア後、家族を頼ることができればまだ良いのですが、必ずしもそれがかなうとは限りません。ではどうするかというと、もっぱら医療や福祉に頼らざるを得なくなる、というわけです。このようにして、医療・福祉が商品として機能するようになった、と考えられます。

――なるほど。では、もし、あるひとが同じコミュニティにずっと居続けていたとしたらどうだったでしょうか?現代だとピンときづらいかもしれません。

小さなコミュニティで共同生活を送っていれば、どういう状態で歳を重ねてきたか周囲のひと達も把握していますし、共同作業の中で育んできた関係性があるので、家族がいなかったとしても誰かが面倒を見てくれたはずです。少なくとも、リタイアすると社会と切り離されてしまうようなことはなかったでしょう。

極端な比較かもしれませんが、こうした対比があったとしても、産業革命当時なら、リタイアの時期と人生の終末期がほぼ同じタイミングだったので「老後も元気な状態のままで長生きする(健康寿命と平均寿命の差を埋める)」といった考え方は出てこなかったことでしょう。

しかし、人生100年時代ともなるとそうは言っていられなくなります。体の不調や体力の衰えに気付き始める40〜50歳くらいがまだ人生の折り返し地点で、その後はずっと“年老いた”状態で人生を過ごすことになるからです。それ以前の年齢でも、病気やケガに遭って元気に働けなくなってしまったら、「労働力としての価値が低い」存在になってしまいます。それはあまりに不幸です。

私は、産業革命以来の“健康”の価値観、すなわち、「工場で働ける体力がある限り、資本家にとっては労働力としての価値がある」という考え方をベースにしていたら、多くのひとが無力感を覚えたり、幸せを感じられない社会になってしまう、と危惧しています。だから、「健康という考え方そのもの」を再定義する必要があると考えているのです。

well-beingという考え方を、人生100年時代の健康の定義に

――確かに、人生100年時代にさまざまな困難を乗り越える中で、ある日突然「“健康”だと言えない」状態になることも十分に考えられます。その状況を恐れて「長生きしたくない」と考えるひとも少なくないとの調査結果も出ているほどです。

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私は千葉をはじめ、地方や田舎で訪問診療に従事していますが、その中で高齢者が口々に「生きていても意味がない」とこぼす場面を見てきました。体の自由がきかず、昔のように働けないなら生きていても仕方がない、というのです。

そうした言葉を聞くたびに「高齢社会というモデルをまったく想定していなかった産業革命の社会的枠組みや既成概念から脱却していかないと、そして、健康寿命という概念を変えないと、誰も幸せになれなくなってしまう」と強く感じます。

誰かのケアを受けることを前提に、元気な時期を過ごす意味

――では、この時代にふさわしい「健康で幸せな生き方」に向けて、どのような変化が必要なのでしょうか?

子どもの時、私たちは親をはじめとする大人たちに世話してもらっていましたよね。だったら、歳を重ねる過程で、再び誰かの世話になる時期がくることも考えてみていいのではないでしょうか?私はそうした時期を「共存期」と呼んでいます。この共存期を、医療や福祉のお世話になったとしても、「自分は幸せで健康だ」と言える状況にすることが、人生100年時代を幸せに生ききるうえで重要になってくると考えます。

たとえば、寝たきりになっても「食事はおいしく食べられるし、痛みもそれほど感じない。自分をケアしてくれる人がいるから、不安も少ない。今の自分は充実して生きている。うまく生きている」と思えるような状態になっていれば、それは本人にとっての“健康”だと言えるのではないか?と私は考えています。

近ごろ「well-being(ウェルビーイング)」という言葉が聞かれるようになりましたが、まさに「よく生きる、うまく生きる」ということが、健康に長寿をまっとうする鍵なのだと思います。

どうやって「well-being」を実現するのか?

――人生をうまく生きている、と実感することはとても難しく、「心の持ちようじゃないか?」と感じる向きもあるかもしれません。先ほどのお話しでは「自分をケアしてくれる人がいるから、不安も少ない」との言葉がありましたが、これは経済力に左右されるのでは、との心配も出てきます。老後にwell-beingであるには、どのような準備が必要でしょうか?

人生を良く生きているな、と実感するには、お金で解決できる部分は限られるかもしれません。少なくとも、公的介護保険のような社会保障だけで自分の老後を守ろうと考えても、これは早晩破綻するとの見方がありますね。では、老後の世話を子どもたちにしてもらおうと考えたとしても…少子化によって子世代に負担がかかりすぎると想像できるでしょう。高齢化が進む地方の町ではもうすでに家族に頼れない不安を抱える高齢者がたくさんいます。

ただ、希望がないかというと、決してそうではありません。先程、共存期の話をしましたが、それに至るまでには2つの期が存在します。

まずは、「依存期」で、幼少期に親をはじめとした大人の養育者にケアしてもらう時期を指します。ここでの習慣や価値観は成長後にも影響する場合があります。それを経て、ちょうど青年期から社会人になって働くころを「自立期」と位置づけています。「体をケアしなくても元気!」と認識していることがほとんどで、健康のために他者からサポートしてもらう必要が少ない時期でもあります。そして、最後が「共存期」です。

人生におとずれる3つの時期
「依存期」
・幼少期に親をはじめとした大人の養育者にケアしてもらう時期
・養育者の義務であり、無償の愛の現れでもある
・習慣や価値観が今後に影響する場合も

「自立期」
・青年期から社会人になって働くころ
・「体をケアしなくても元気!」と認識していることがほとんど
・健康のために他者からサポートしてもらう必要が少ない時期
・他者との関わりは希薄になりがちだが、このときにこそ共存期の準備を!

「共存期」
・再び誰かの世話になる時期
・医療や福祉、血縁者や関係者ほか社会保障のお世話になることも

では、「共存期」をwell-beingに過ごすにはどうしたらいいか?ですが、私は自分が自立していると思っている自立期のうちにしっかりと準備をすることが不可欠だと感じています。

歳を重ねた先の人生で、血縁などとは関係なく(できたら自発的に)世話を買って出てくれる人を作る努力が欠かせない、というわけです。リンダ・グラットン教授が『Life Shift』の中で “無形資産”という言葉をつかっていましたが、まさにそれを自立期にどれだけしっかり築いていくかが、共存期にたとえ寝たきりになっても「自分はうまく生きている」と感じられるかどうかを左右すると思います。

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どうやったら共存期を想定できるか?高齢社会を生き抜く能力を獲得するには?

――30代から50代の自立期のうちに「共存期の準備をする」というのは、頭では理解できるのですが、「先のことだし、まだ良いんじゃないか」と先送りしてしまう気持ちもわいてきそうです。こうしたマインドをどう変えるか?アドバイスをいただきたいです。

社会全体という意味では、小学校から始まる保健体育の授業がその問題を解決する糸口だと考えます。高齢社会の“常識や教養”として、これからの社会の担い手は「共存期に備えるための自立期の生き方」を小中高の間に考える時間があってもいいはずです。

では、今まさに社会を担うひとはどうすればいいのか?これは難しい課題です。医療者としては、地域で「健康の再定義や共存期の過ごし方」を語り合う機会を持つべきだと考えていますし、私自身もそうした取り組みを続けています。しかし、今まさに子育てや仕事で忙しいひとたちがこれに参加するのは難しいかもしれませんね。ですが、これも、オンライン・サロンといったテクノロジーの活用を積極的にすすめていくことで解決できると考えます。

ヒトは先史以来、狩猟採集のために道具を作ったり、食べてもいいかどうか見定める能力を獲得し、その後、さまざまな変遷を経てその時々に応じた能力を獲得あるいは退化させてきました。そしていままさに身に付けないといけない能力は、高齢社会を生き抜く能力です。これは、今まで人類が獲得したことがないものでもあります。

街もヒトも高齢社会に合わせた社会にはなっておらず、医療や福祉に携わる専門家も「人生100年」を想定した知識を学んだひとはほとんどいません。だからこそ、医療・福祉の話としてだけではなく、すべてのひとが「共存期の過ごし方を語り合い、その過程で自分なりの高齢社会を生き抜く能力」を獲得していくことが求められている、というわけです。

私が考える高齢社会を生き抜く能力とは、血縁に頼らずに自分のコミュニティを築くことです。私の場合、医療従事者ではありますが、教育に興味を持ち始めてからそうした分野のひとに会いに行く中で、メンターと呼べるひとを見つけました。今後、もし共存期を生きる中で、彼にケアが必要になったら、私はできる限りのことをしようと考えています。

このような関係性は「狙って築こう」とするものではありませんが、確実に自分を守ってくれる資産になります。この資産は、財を投げ売ってでも、お金を借りてまでも投資する意味と価値があるでしょう。

「年をとって、必要になったからケアをしてもらおう」と言っても、うまくいかないもの。これまでの人生でどれだけ無形資産を築いてきたかが重要なことだ、というわけです。

直観に基づく確信と意思決定能力

――健康とwell-beingという言葉が出てきました。これは大部分の意味において重なるものだと思いますが、やや違った部分もあるように感じます。この2つはどういう関係なのでしょうか?

結局のところ、well-beingとは、本人の直観に基づく確信に過ぎないものです。たとえば、「なんだか根拠はないけれど、疑いようもなく私は健康だ!いまのライフスタイルで大丈夫!」と、自分に自信が持てたなら、まずは“健康”だと言えるでしょう。

しかし、もし少しでも疑問が生じて確信度合いが下がるようなことがあったなら、それは体のわずかな不調を自分が感じ取っていることでもあるはず。だったら、医療の力を借りて、疑問に感じていることをクリアにし、再び「自分は健康だ!」と確信できるように努力していく必要があります。

一方、検査をしてもまったく数値的に問題はなくて、医学的には「健康体」だと言えたとしても、そのひとが「やっぱり不安。健康じゃない気がする」というなら、それはwell-beingではない状態だと言えます。こうしたひとは意外に少なくないかもしれません。それというのも、数値的に健康を測ることで恣意的に病気ができてしまう側面があるからです。

たとえば、病院で判定される「正常値/異常値(健康/不健康)」は、それまでに検査した人たちの結果をもとに、判定の線が定められています。以前は、自分で健康に不安や懸念を感じる人たちがおもに検査を受けていましたが、近年は、「健康に気をつかっている健康な人」も検査を受けるようになったため、どこで線引きをしたらいいか混乱が生じるようになっているんです。また、「健康な後期高齢者のデータ」はまだそこまでサンプル数がないため、比較しづらいといったことも挙げられます。そうしたことを踏まえて、数値を見て自分が健康な状態かどうか一喜一憂する必要があるのか?少し立ち止まって考えてみてほしいのです。

しかしそうなると、「どう自分が健康かどうかを判断するか?」迷いますよね。このとき、自分の意思決定能力をしっかりと発揮することが大事だと私は考えています。健康かどうかが人生の重大なことであるなら、それを判断する時には他人任せにせず、直観に基づく確信という軸で判断することが、well-beingの視点から、重要でしょう。

もし何か病気があったとしても、直観に基づく確信から「自分が健康だ」と言えるなら、それは健康のひとつのあり方であり、うまく生きていると尊重されるべきです。ほとんどの場合、そうした直観には、根拠となるものが必ずあるものです。たとえば、甘いものを食べすぎている感はあるけれど、それで心の整理をつけているから自分は生き生きとしているというなら、それは健康だと言えるのではないか、ということです。

ただ、「甘いものを食べすぎていることで心の均衡を保って健康でいる」という確信条件が、何かのきっかけで揺らぐことがあるかもしれません。「もしかして、体が重く感じるのは…」と心配になってきたとき、医療従事者はもちろん、周囲のひとと健康について語り合って、場合によっては確信条件が更新される可能性もあるでしょう。甘いものを控えてみる、といったちょっとした一歩から、体を気遣う気持ちが生まれ、体をいたわるようセルフケアしてみよう、という行動につながることもあり得ます。

セルフケアから始まる予防医学の実践

――近年、「予防医学で健康を保つ」という言葉を聞く機会が増えています。しかし、がんを始めとする重い疾患や加齢による衰えを若い頃から想定して対策するのは、ピンときづらく、結局のところ「何をしたらいいのかわからない」と思考停止になってしまいがちです。しかし、さきほどの甘いものの例は、体をいたわり健やかな状態を保ったことで得られるメリットを想像しやすく、モチベーションもわきやすいように感じました。

先程も出ましたが、健康にお墨付きを与える「正常値」が変化しうることは、今日では多くの人に知られ始めています。だからこそ、数値に左右されず自分は健康だ、と確信できる状態になるために努力し続けることが大事だと思います。

ただし一点、ここで注意していただきたいのは、「単に病院に行かないだけで、体の異常を見つけようともしない思い込みだけの健康」と、「数値などに左右されず自分は健康だと確信し、その確信を支える“何か”があること」はまったく違う、ということです。

これをどう選り分けるかというと、私なら「では、同じくらいの年齢のひとと同じように走ったり、階段を駆け上ったり、そのほかの活動ができますか?」と質問します。そして、実際にできるかどうか試してみてもらうでしょう。それでダメだったら「あれ、じゃあどうしたらいいのかな?」と、本人が考え始めますよね。これが、セルフケアの第一歩になる、というわけです。

ほかにも、過度なダイエットをしているひとが「私はスマートで健康」とおっしゃることがありますが、本当はきちんとした栄養をとっていない、軽度の栄養失調な場合があります。そうした方は将来、骨粗鬆症のリスクが高まるので、共存期に誰かのケアが欠かせなくなり、QOLが下がるおそれすらあります。そこで、まずは「本当に体に不調はありませんか?」と問いかけます。そうすると、ほとんどのひとが「実は…」と言い始めるものです。

また、現役世代の方は特に「働きすぎだけれども大丈夫!」と胸を張るケースがありますが、「本当ですか?日々のパフォーマンスに影響は出ていないですか?昼間に睡魔に襲われていないですか?」と問いかけるでしょう。そこから「確かに、睡眠不足だなぁ。だから、生産性が落ちているなぁ」となるわけです。

そうして、自分の中の「自分は健康だ!」という確信条件が揺らいだ瞬間が、私たち医療従事者の出番です。「じゃあ、どうしましょうか?」と、会話を重ねて健やかな状態になるようセルフケアするサポートをしていく絶好のチャンスだからです。これが、「そのひとにとって、何を予防するのか」を明確にした予防医学の始まりだとも言えるでしょう。

ここで大事なのは、確信条件を更新するために対話し、新たな考え方を取り入れていくことです。私はこのプロセスを「Learn to Survive(生ききるために学ぶ)」と名付けています。これまでなされてきた公的教育は「知識、能力を授ける」ことに特化していますが、寿命が長くなっている今日、それだけでは生きるための能力は身につかないと想像できます。会話を通じて相互承認しながら確信条件を固めたり更新したりすることは、これからの時代に非常に重要な体験になると確信しています。

ひとは、大小はさておき、病気からは逃れられません。人生100年ともなると、病気になるひとも増えるでしょう。しかし、だからこそ、セルフケアを続けて「自分は健康を保っている」と確信し続けられるようにしていくことが大切です。もちろん、その確信について語り合うコミュニティを培うことも欠かせません。そうした努力が続いていけば、たとえ病気になったとしても、長い人生をより充実したものにしていけるのではないでしょうか。

松本尚浩(まつもと・たかひろ)
1987年産業医科大学医学部卒業。在宅医療のNexWel恵那地域笑顔共創クリニック院長。一般財団法人全日本患者安全組織文化学習支援財団(http://www.zenkanan.com)代表理事。医療の教育・訓練の改善や取り組みについて、スライドシェア(https://www.slideshare.net/)やYouTube(https://bit.ly/2xAB0qX, https://bit.ly/2pqCTlj)で資料を公開したり、定期的な学習会を開催するなどして考えを広め議論を深める活動を続けている。

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